物件解説
横浜市街から本牧山をはさんで南側には、本牧神社、三渓園などの名勝があり、緑の多いゆったりとした住宅街が広がっています。その中でも平成に入って分譲され、街路や樹木が美しく整備された一角に、この住宅はあります。設計したのは、日本における女性建築家の草分けともいわれる建築家・林雅子。最晩年に設計された、未発表の作品です。
林雅子は1928年に北海道に生まれます。旭川の紙問屋の娘として生まれた雅子は、小学校、女学校を経て、戦後直後、できたばかりの日本女子大学家政学部生活芸術科住居科で建築を学びます。現在でこそ建築学科に入学する女性も女性の建築家も多い時代になりましたが、当時は全くと言ってよいほど、建築にかかわる女性はいない時代だったそうです。
卒業後、建築家・清家清(1918-2005)のもとで研究・設計を行った雅子は、同門で後に日建設計を代表する建築家となる建築家・林昌二(1928-2011)と結婚。中原暢子、山田初江とともに「林山田中原設計同人」を設立します。夫との共同設計である私たちの家、デビュー作といわれるOさんの住まい、代表作であるギャラリーを持つ家など、住居を中心に多数の作品を残し、一連の作品で女性初の日本建築学会賞を受賞するなど、日本における女性建築家の先駆けとなりました。
この住宅は、親子が住む2世帯住宅として設計されています。1階が親世帯、2階が子世帯を想定された、ほぼ同じ平面構成の2層の住宅です。残念ながら所有者の移り変わりの過程で、かつてどんな使われ方をしていたのか、どんな方が住んでいたのかわかっていません。しかし平面図を見ると、ソファやベッド、ダイニングセットが描かれていて、この家で行われていた生活のヒントがちりばめられています。
家族の在り方が多様化している現代においては、近接しつつも独立した生活を営みたい親子はもちろん、夫婦、兄弟、友人同士など、様々な暮らしを実現できそうです。
1、2階とも平面形状は2つのコアをL字に配置したプランです。2つのコアの間を大空間になるようにかけ渡すつくりは代表作の「ギャラリーのある家」を思わせます。中央の大空間は壁ではなく、目線よりも少し高いくらいの高さの作り付け家具によって分節され、広がりの予感がある寝室、キッチン、家事室や書斎の空間を実現しています。
1階のハイライトは、なんといってもソファのあった場所からの庭の眺めです。道や近隣家屋に対して斜めに向いているので、大開口でも周囲の視線も気になりません。障子があることや、中央の家具の木の印象せいか、カーペット敷きの部屋ですが、和の落ち着きを感じます。
大きな窓のついた心地よいキッチン。ガラスのコレクションケース越しに、居間の家族のだんらんを感じられます。近隣は植栽が豊かで、窓からの眺めも緑がいっぱいです。
キッチンの奥、庭から家具を挟んで反対側にある角の空間は寝室です。たっぷり収納できるクローゼットがあり、窓辺には机が配置されています。壁ではなく、家具に取り付けられた扉を開けて入ってくるのは、何とも不思議な体験です。
さらに寝室の隣には大きな収納と机があります。建築当初は家事室として計画されていますが、仕事や、趣味の部屋としても使えそうです。
家事室を抜けると、一周して居間に戻ってきます。
1階奥のコアには、和室、洗面室、浴室、トイレがあります。いずれも木の素材感とあった、やわらかい色味で構成されています。
つづいて、玄関のあった手前のコアの階段を上って2階へ向かいます。
子世帯の入り口の引き戸を開けると、ダイナミックな空間が目に飛び込んできます。屋根の勾配とともに、変形の五角形平面が庭に向けて広がっていく劇的な空間は、こちらも林雅子の代表作の一つ、「末広がりの家」シリーズを彷彿とさせます。1階と同じ平面形状にも拘わらず、全く違う空間が広がっているのは、屋根の効果だけではありません。
林雅子の住宅の魅力の一つに、色づかいの絶妙さがあります。中でも「雅子レッド」と呼ばれる赤が、林雅子の作品では必ずと言ってよいほど使われています。
1階が木や和の印象があるナチュラルな色使いをしていたのに対し、2階の部屋は「雅子レッド」の建具を中心に、やや暗い緑を造作家具に使うなど、モダンでシックな印象になっています。
奥のコアは、こちらも個室と水回りが配置されています。個室は「雅子レッド」が印象的な設計時は予備室とされていますが、収納もたっぷりあり、書斎スペースと併せて、子供用のスペースとしても使えそうです。
林雅子が亡くなったのは2001年1月のこと。2001年3月に完成したこの住宅はまさに最晩年の作品です。没後の2002年に刊行されたHayashi Masako,architect1928-2001(新建築社)には、年表に名前だけが残っています。この住宅には、林雅子が建築家として生きた、73年間の、空間や色彩のエッセンスが詰まっているのかもしれません。
そんな住宅で、あなたも大切な誰かと暮らしてみませんか。
公開日 : 2021年06月24日 / 更新日 : 2021年06月25日
取材・文: 川原 聡史 / 撮影: 千葉 正人